tanchanのバイク日記

趣味のバイクを中心に日常を綴ります。

2015年06月

今週は北ノ庄(福井市)で仕事でした。
北ノ庄城 跡にある柴田勝家像です。

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柴田勝家は魅力的な人物ですよね~。
信長軍団一の猛将でありながら、敵方の未亡人であったを愛し、この北ノ庄城で伴に
命を散らしたのです・・・。不器用な男っぷりがカッコイイです。

勝家像の傍らには、お市と悲運の3姉妹の像もあります。(一番奥がお市です)

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勝家の後に福井を統治したのは、徳川家康の次男である結城秀康です。

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秀康は勝家の城に被せるように新たな城を築きました。(デザインは徳川家康だそうです)
これが現在の福井城です。(城内は福井県庁になっています)

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天守台の跡地です。

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でも天守台は1669年に消失し、再建されなかったそうです。

天守台脇にある福の井です。
北ノ庄の「北」は縁起が悪いとされ、後にこの井戸にちなんで当地を「福井」と改称したそうです。

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お城の隣には立派な神社があります。

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結城あらため松平となった越前松平家徳川家康公を祀った佐佳枝廼社(さかえのやしろ)です。別名「越前東照宮」というそうです。でも平成4年新築は新し過ぎです

少し足を延ばして足羽山へ行ってみました。

足羽山の中腹に由緒正しそうな神社がありました。

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足羽神社です。ここは継体天皇をお祀りしています。
福井出身の天皇もいらっしゃるんですね。ちょっとビックリ

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せっかく福井に来たのだからグルメも楽しみましょう

先ずは越前そばですね~。見吉屋本店です。(http://miyoshiya-fukui.com/oroshisoba/

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越前おろし三昧です。三種類のそばが楽しめます。

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ボルガライスも外せませんよね~。(http://tabelog.com/fukui/A1801/A180101/18004675/

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福井発祥のラーメン店 岩本屋本店です。(http://iwamotoya.jp/

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間限定の辛旨ラーメンを食べました。もう汗だくです


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そして福井と言えばやっぱココ ヨーロッパ軒総本店です

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定番のソースかつ丼です。旨いっす

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旨いっす また太っちゃいました

飯盛山から白虎隊の帰還が叶わなかった鶴ヶ城へ向かいました。
距離でいえば数キロです。複雑な心境です

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二の丸から橋を渡り城内へ入ります。

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外堀からはかなり距離がありますが、この天守閣に砲弾が雨あられと降り注いだんですね~。

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窓の少ない要塞的なお城です。

中は資料館になっています。(天守閣は完全な現代建築です)

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八重さんです。残念ながら、綾瀬はるかさんとは似ても似つきません。

展示物は年ごとにガラッと変わるようです。前回来た時は「八重の桜」一色でしたが、今回は全くありません。(大人の事情ですかね・・・)
唯一の展示がコレ
松平容保と八重の衣装が展示されていました。

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個人的には、「なぜ会津藩が朝敵にされたのか」ということにもっと触れて欲しかったです。
悲しい歴史ですからね・・・







少しずつですが、作業しています。
中古のマスターを入手しました。(左側)
元のモノより状態が良く、リザーバータンクも付いています。

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この金属製のブレーキラインが、曲者です。
バッテリーケースを外し、知恵の輪みたいに四苦八苦して交換しました。

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今度こそネジ山を潰さないよう慎重に組み付けました。

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んがっ、ブレーキペダルのリターンスプリングが何処に架かっていたのか判らなくなって
しまいました

桧原湖畔で泊まった翌日は、会津若松へ行きました。
ゴールドラインで一時間ほどで会津若松に到着します。

最初に行ったのは飯森山です。
市営の無料駐車場にクルマを置いて歩きます。

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流石は飯盛山。自販機まで白虎隊仕様です。

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お土産屋が立ち並ぶ坂道を上っていきます。

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足に自がない方には、有料のエスカレーターが用意されていますが・・・

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ケチな私は自分で登ります。

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坂を登りきると、そこには白虎隊隊員のお墓があります。

写真は自刃した隊員のお墓です。
20名が自刃したのですが、1名が命を取りとめたので、19基あります。

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ウィキの解説です。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
白虎隊は本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度とされた。なお、装備していた火器は旧式銃のみであったとされる。
これは火縄銃よりはましというレベルの装備であり、新政府軍の主力たる西南雄藩部隊の装備に対して著しく劣っていた。
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。
会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、
最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、8月23日に負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた。
このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、唯一喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留め、その他19名が死亡した。

お墓のある広場から少し歩くと、自刃した場所があります。

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霞んでいますが、彼方に鶴ヶ城が見えます。

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近くに一名だけ生き残った飯沼貞吉さんのお墓もあります。

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ウィキからです。
その後、飯沼は電信技士として維新後を生き抜き、1931年に77歳で没した。
飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わっている。
飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された。ただし、飯沼の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている。

何だか悲しい歴史ですね・・・


少し間隔が空いてしまいましたが、裏磐梯旅行の続きです。
吾妻山を福島市側に下り、R115で裏磐梯に戻ります。
今日のお宿は、桧原湖畔にあるココです。

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磐梯檜原湖畔ホテルです。

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隠れ家的な割と立派なリゾートホテルですが、一泊二食7300円の激安プランで泊まる我々の部屋はココ


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ヤレたカンジのトイレ付バス無しの和室です。集合住宅みたい・・・

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それでも激安プランだって見える景色は一緒です。吾妻山が一望です。

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激安プランの客でも、ロビーでくつろぐことが出来ます。

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激安プランですが、食事もなかなかです。(一品ずつ出てくるので、写真は淋しく写ってます・・・)

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桧原湖はバスフィッシングのメッカなので、アングラーが大勢います。
泊まっているのも、お年寄りかアングラーです。私も釣道具を持ってくれば良かった

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超お奨めの宿ですが、難点が一つ・・・

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窓にビッシリと張り付いたカゲロウが脱皮しているので、窓が開けられません((((;゜Д゜)))))))





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