tanchanのバイク日記

趣味のバイクを中心に日常を綴ります。

2015年09月

高松城の続きです。
天守台から下りて、城内を散策します。ここは水門です。
高松城のお堀は海水だそうです。

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城内には披雲閣という大きなお屋敷があります。

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ウィキからです。
三の丸には松平藩時代に披雲閣と呼ばれる現在の2倍の規模の書院風建物があったが、1872年(明治5年)に老朽化によって取り壊された。現存する披雲閣は、松平家高松別邸として、当時の金額で15万円と3年の歳月をかけて1917年(大正6年)に竣工した。昭和天皇が宿泊したり、アメリカ軍に接収されたりしたが、高松市が譲り受け、貸会場として市民に利用されている。また披雲閣の再建に合わせて内苑御庭という枯山水の庭が作造された。披雲閣は2012年(平成24年)7月9日に近代和風建築として国の重要文化財に指定された。

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東門から出て、お堀沿いに石垣を一周してみました。

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艮櫓(丑寅櫓)です。昭和40年に高松市が東の丸から太鼓櫓跡に移築したものだそうです。
何か、遺構をアチコチにガタガタ動かしてる城ですね~。

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実は、お堀の上には電車が走っています。

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何と 駅もお堀の上です。

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ようやく一周し、最初に入った西門まで来ました。

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さあ、次へ移動しましょう・・・


二日目の朝が来ました。今日も快晴です。
泊まったホテルはJR高松駅の近くですが、隣接してフェリーターミナルがあります。
電車を降りたらフェリーに乗り換え、近くの島へ渡るようです。フェリーは生活の足なんですね。

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そのフェリーターミナルの前に高松城があります。(写真は水手御門です)

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ウィキからです。
別名「玉藻城」は、万葉集柿本人麻呂讃岐国枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。
高松城は、豊臣秀吉四国制圧の後、1587年天正15年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。
近世城郭の海城としては、最初で最大の例で[1]、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われている。本丸に建てられた天守は、最下重が萩城熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城岩国城の天守のように「唐造り」であった。その様子は、解体される以前に写真におさめられ、また1884年にイギリスの週刊新聞「ザ・グラフィック」でイギリス人のヘンリー・ギルマールの絵によって紹介されている。[1]

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現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されています。

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無料公開していたので、西門から中に入ってみました。

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天守台はお堀の中にあるので、橋を渡らないと行けません。

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天守台に登ってみましょう。

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天守台がエグれています。天守閣には地下室があったそうです。

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天守閣は、松平時代の寛文9年(1669年)頃に三層五階に建て替えられ瀬戸内海にその威容を誇っていましたが、明治17年(1884年)老朽化により取り壊されたそうです。

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その後には玉藻神社が建てられたそうですが、現在は取り壊され、天守閣の復元を目指しているそうです。

天守台からの眺めです。

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さて、天守台からおりて城内を散策してみましょう・・

今日、27日は、富山県(イオックスアローザ)で初めてKCBM(カワサキコーヒーブレークミーティング)が開かれます。近場ですし、天気もなので、是非とも行かねばなりません。
chonanのZ2モドキを借りて、出発です

んがっ 予想に反して森本~福光の峠を越えたあたりから模様・・・

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会場も霧に霞んでいます。

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KAZEガールも居らず・・・

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見たことのある北陸W軍団のバイクを発見するも、ライダーには会えず・・・

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早々に帰りました・・・

シルバーウィーク後半の22~23日、復活なったR100RTで初のロングつ~へ行って来ました。
午前7時に自宅を出発、加賀ICから北陸道~舞鶴若狭道~中国道~播但道で姫路入りです。姫路市内はかなり混んでました バイクで良かった
姫路城の前にある大手前公園の地下駐車場にバイクを停めました。
バイク専用スペースがあり、安心です

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地下駐車場から地上に出ると、姫路城が目の前に・・・

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公園を横切ると、大手門前です。

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大手門から中に入ります。

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さすがに人が多いですね~。

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現在1時半ですが、3時間待ち+見学時間2時間だと午後4時の閉門時間までに出られません
たぶん、入るなと言う事なんでしょう・・・

仕方がないので、三の丸広場から眺めるだけにします。

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真っ白でキレイです。

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ウィキからです。
姫路城は、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残っている現存12天守の一つで、ほぼ中堀以内の城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された[15]
姫路城の始まりは、1346年南朝正平元年、北朝貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものはや館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏[注釈 3]家臣黒田重隆職隆父子による築城を最初とする説もある[16]
戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏羽柴氏城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。
江戸時代には姫路藩藩庁となり、更に西国外様大名監視のために西国探題が設置されたが、城主が幼少・病弱・無能な場合には牽制任務を果たせないために城主となる大名が頻繁に交替している。池田氏に始まり譜代大名本多氏榊原氏酒井氏親藩松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。

園内には動物園もあります。

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時間も無いので先へ進みます。

姫路西ICから山陽道~倉敷JCT~瀬戸中央道瀬戸大橋を渡り、四国へ入ります。

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四国では坂出JCTから高松道に入り、午後5時頃に高松市内の宿へ着きました。

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二日目に続く・・・

今日は小松基地で開催された航空祭2015へ行って来ました。
いつもはバイク(基地内に駐車できます♪)で行っていたのですが、先日原付を修理した知り合いから基地内駐車券を頂いたので、○妻とクルマで出かけました。
(結果としては大失敗でした。入れない、出られないの大渋滞でした

F‐15イーグル

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救難隊

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F‐2

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ブルーインパルス

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堪能しました

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