tanchanのバイク日記

趣味のバイクを中心に日常を綴ります。

カテゴリ: 旅行(中国)

稲佐の浜から神々の社が並ぶ細い道を抜け、大通りに出ました。
この道は、阿国の道と言われています。

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出雲 阿国(いずもの おくに)は、出雲大社の巫女出身の女性芸能者です。
安土桃山時代に阿国が創始した「ややこ踊り」が様々な変遷を得て、現在の歌舞伎になったと言われています。


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ややこ踊りは、元々は可愛らしい幼子のような踊りでしたが、徐々に阿国が男装して茶屋の娘と戯れるというセクシーな女歌舞伎に変わっていきました。

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風紀が乱れることを懸念した幕府は、女性が舞台に立つことを禁じ、男性が演じる「野郎歌舞伎」が演じられるようになります。これが、現代の歌舞伎の原型となりました。

阿国の道に出てすぐのところに阿国終焉の地があります。
出雲大社の修繕費用など寄付してもらうことを目的に、全国を巡業していた阿国ですが、晩年は故郷に戻り、ここで生涯を閉じたそうです。

小高い丘の石段を上ると・・・

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阿国の塔があります。

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歌舞伎の元祖だけあって、名だたる歌舞伎役者の名前が並んでいます。

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ここからは弁天島を一望できます。

少し離れたところに、阿国の墓があります。

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普通の墓地の中に阿国の墓が建っています。

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阿国の墓は、芸能を志す人にとって、大切な聖地になっているそうです。


伊佐の浜から出雲大社へ向かう、生活道路のような細い坂道があります。

少し上ったところに出雲大社下宮(「げぐう」ではなく、「しものみや」と読みます)があります。

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小さな祠ですが、お祀りしているのは、何と天照大神(アマテラス)です。
あのアマテラスが、一番下にいらっしゃるんですね~。 さすが大国主の国

さらに少し歩くと、今度は少し大きい上宮(うえのみや)があります。

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ここは神在月に集まった八百万の神々と大国主が、会談する場所です。

更に歩いて、大通りと交わるところに大歳社(おおとしのやしろ)があります。

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ここは素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子供の大歳神(おおとしのかみ)をお祀りしています。
大国主は素戔嗚尊の六世孫ですが、素戔嗚尊の娘と結婚しています。
何だかややこしいですが、要は義兄弟ということでしょうか?

伊佐の浜を下から上がってくると、
アマテラス→八百万の神々→親戚筋 の順になります。
日本の最高神はアマテラスだと思ってましたが、出雲の国では違うようです・・・。


もう先週の話になりますが、3月9日(土)の午前7時に自宅を出発
加賀ICから北陸道に乗り、トイレ休憩とドライバー交代をしながら舞鶴若狭道~中国道~米子道と走り、正午頃に蒜山(ひるぜん)高原SAで休憩&昼食を取ります。

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ここからは大山が望めます。

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こちらから見る大山はギザギザの連峰に見えますが、米子からだと富士山のような円錐形に見えます。不思議な山ですね~。

米子道から山陰道に入り、出雲ICで下りてR431を海が見えるまで走ると稲佐の浜に着きました。

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ここは、大国主大神と武甕槌神が国譲りの交渉をしたと伝わる場所です。
旧暦10月10日には、全国の八百万の神々をお迎えする浜でもあります。

浜にある大きな岩は弁天島です。
浜にある岩なのに「島」と言うのは、かつては沖にあった島だったのが、浜が広がり、現在では歩いて行けるようになったからです。

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 神仏習合の頃には「弁財天」が祀られていたので「弁天島」と呼ばれてますが、明治のころから豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)が祀られています。

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この海の向こうには朝鮮半島があります。
神々とは、太古の日本人に海を渡って文明を伝えた渡来人のことなのでしょうか・・・。

広島から厳島神社のある宮島へ小一時間ほど移動します。
宮島口のフェリー乗り場の駐車場にクルマを停め、フェリーに乗ります。

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10分ほどで厳島に着きます。

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厳島神社のある厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)島」というように、古代から島そのものを神として信仰されたと考えられています。

観光客でごった返す仲見世を避け、海岸沿いの参道を進みます。

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海に浮かぶ大鳥居が見えてきました。
大鳥居は、高さの16m、重量は約60t。主柱は樹齢500~600年のクスノキの自然木で作られており、8代目にあたる現在の鳥居を建立するにあたっては、巨木探しに20年近い歳月を要したといいます。また根元は海底に埋められているわけではなく、松材の杭を打って地盤を強化し、箱型の島木の中に石を詰めて加重するなど、先人の知恵と工夫によって鳥居の重みだけで立っています。

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では、中に入ってみましょう。

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厳島神社の創建は、推古元年(593年)、と伝えられます。平安時代後期の仁安3年(1168年)に、佐伯景弘が平清盛の援助を得て、今日のような廻廊で結ばれた海上社殿を造営しました。
鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になり荒廃した時期があったものの、弘治元年(1555年)、厳島の合戦で勝利を収めた毛利元就が神社を支配下に置き庇護したことから、社運は再び上昇します。

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天下統一を目前にした豊臣秀吉も参詣して武運長久を祈願しており、その年安国寺恵瓊に大経堂(千畳閣)建立を命じています。
ビッグネームの所縁が目白押しの神社です。海の上の回廊を歩くと・・・

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本殿に着きます。

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本殿には、市杵島姫(いちきしまひめ)・湍津姫(たぎつひめ)・田心姫(たごりひめ)の宗像三女神が祭られています。桧皮葺の屋根に瓦を積んだ化粧棟のスタイルを取り入れた寝殿造りならではの様式が特徴です。現在の本殿は元亀2年(1571年)、毛利元就によって改築されたものです。

本殿前にある高舞台です。

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黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄をめぐらし前後に階段をつけた舞台で、平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽がここで演じられます。現在の舞台は天文15年(1546年)に作られたもので、当初は組立て式だったものが江戸時代初期に現在のような作り付け構造になったと考えられています。

回廊をぐるっと回って、地上に戻ります。

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帰りは仲見世を歩き、お昼に広島風お好み焼きを食べてみました。

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贅沢にも牡蠣のトッピング乗せです。キャベツが甘くて美味しかったです。

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さあ、これからは九州に向かって走りましょう。

原爆ドームの近くに広島城があるので、ついでに寄ってみました。

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広島城は築城以来、毛利家⇒福島家⇒浅野家と城主が変わりました。
本格的な城郭が完成したのは、福島正則の頃だと言われています。

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福島正則は、秀吉の七本槍の一人として活躍し、関ケ原の合戦でも武功を建て、広島の城主となりました。しかし、後年になって徳川家康からインネンを付けられ、左遷されてしまいました。
家康ってイヤな奴ですね~

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戦前は国宝だったこの天守も原爆の被害で倒壊してしまいました。
現在の天守は、昭和33年に復元されたもので、一見木造ですが、鉄骨・鉄筋コンクリート製です。
昔の建築なので、忠実に再現されていない部分もあるようです。
会津若松の鶴ヶ城のように改装すれば良いのに・・・

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