tanchanのバイク日記

趣味のバイクを中心に日常を綴ります。

カテゴリ: ツーリング2015

今日は天気予報でも早くからマークの日だったので、chonanとツーリングの約束をしていました。
朝起きると確かに天気は良いですが、とにかく寒い
この寒さでは、山は避けたいので能登半島へ行くことにしました。
それでも寒さから出発はズルズルと遅れ、午前9時過ぎになってしまいました。

R8~海側環状~さと山海道を走り1時間少々で高松PAまで来ました。

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風が強いです
潮風でシールドが曇ります・・・

それでも何とか輪島まで来ました。
輪島市内のハチラで味噌ラーメンを食べて暖を取り、目の前にある激安GSチェーン店で給油して
白米千枚田に着きました。

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立っていられないくらいの強風です

曽々木海岸の窓岩です。波しぶきが降りかからんばかりの大荒れの日本海です。

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波を被る海沿いのR249を走り、NHKの朝ドラ「まれ」の舞台になった角花さんの塩田まで来ました。

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近くの道の駅「塩田村」には沢山の人が居ましたが、ここはには誰もいません。
何だか寂しいです・・・

あまりの寒さ(11℃でした)に心が折れ、能登半島一周を断念し、R249で大谷峠を越えます。
大谷峠を下りたところで右折し、珠洲広域農道へ入ります。

この道は能登半島の背骨を貫く快走路です。
ほとんどクルマが走っていないので、正に貸切状態です。
ここは、奥能登最高峰の宝立山付近です。

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写真では分り難いですが、紅葉が始まっています。

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もう少しで見頃でしょうね。

珠洲広域農道は柳田で珠洲道路と合流します。
珠洲道路からさと山海道を走り、R8で帰宅しました。

つい半年前まで奥能登で生活をしていたので、今までツーリングに行く気になりませんでしたが、今回走ってみて新ためて思いました。
能登は良いところです。ツーリングに最高のコースです
でもベストシーズンはやっぱ夏ですね・・・



高松城から市街地に向けて10分ほど走ると栗林(りつりん)公園があります。

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公式HPからです。
室町の手法を残す石組みの地をもとに、江戸時代、讃岐高松藩の歴代藩主により百年余りの歳月をかけて完成、下屋敷として利用されていました。現在では、特に重要な文化財庭園として国の特別名勝に指定され、また日本に関する旅行ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」では「わざわざ旅行する価値がある」を意味する三つ星に格付けされるなど、日本を代表する大名庭園として国内外から高い評価を得ており、その美しい姿が引き継がれ、守られています。 

    

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この大きな建物は商工奨励館と言い、1899年(明治32年)に建てられたもので、100年あまりを経ています。当時の中央政府の建築家である帝室技芸員であった伊藤平左衛門が設計したもので、元々は、「香川県博物館」として建てられたものです。

南端にあるのが掬月(きくげつ)亭です。
歴代の藩主が使用した茶室で、江戸時代は「大茶屋」といわれていました。玄関を持たず、どこからでも出入りできるように、いろいろなところに沓脱石(くつぬぎいし)が置かれた、数奇屋づくりの建物です。名前の由来は、唐代の詩の中の「水を掬すれば月手にあり」の一句から取ったものといわれています。園内の中心的な建物で、特に掬月の間から南湖を望む景観は、他に類を見ないすばらしい景観です。

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日暮(ひぐらし)亭です。

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1700年頃、南庭の東南隅に「考槃亭(こうはんてい)」と呼ばれる茶室があったものを、1750年頃、会僊巌の東方に移築し、名を「日暮亭」と改めました。明治の初期に、園外に払い下げられましたが、1945年(昭和20年)に、有志の努力により、再び園内に移築されました。元あった場所には、二代目の日暮亭が建てられていたため、現在では「旧日暮亭」と呼ばれています。

こちらが「新」日暮亭です。

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1898年(明治31年)に建てられた石州流の茶室です。中には、茶室が5部屋あり、その真ん中に水屋が設けられるなどの工夫がされており、東側、西側にそれぞれ茶室の庭である露地が設けられています。

池沿いを北庭へ移動します。

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密集しています・・・  ちょっと不気味なくらいです・・・

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芙蓉沼(ふようしょう)です。芙蓉とは蓮のことです。

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これまた水面が見えないほど密生しています。

まだまだ見どころはありますが、午前10時になったので、そろそろ帰途に付きます。

高松中央ICから高松道に乗り、神戸淡路鳴門道を経由し、舞鶴若狭道で帰りました。

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午後4時に自宅へ無事到着しました。
R100で初のロンつ~でしたが、トラブル無く走れて良かったです。
ただ、リッター11~12キロの燃費には閉口しました・・・
たぶん、キャブのセッティングが出ていないので、ガソリンを煤にしてバラまいてるんだと思います。
まだまだ課題は多いです・・・


高松城の続きです。
天守台から下りて、城内を散策します。ここは水門です。
高松城のお堀は海水だそうです。

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城内には披雲閣という大きなお屋敷があります。

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ウィキからです。
三の丸には松平藩時代に披雲閣と呼ばれる現在の2倍の規模の書院風建物があったが、1872年(明治5年)に老朽化によって取り壊された。現存する披雲閣は、松平家高松別邸として、当時の金額で15万円と3年の歳月をかけて1917年(大正6年)に竣工した。昭和天皇が宿泊したり、アメリカ軍に接収されたりしたが、高松市が譲り受け、貸会場として市民に利用されている。また披雲閣の再建に合わせて内苑御庭という枯山水の庭が作造された。披雲閣は2012年(平成24年)7月9日に近代和風建築として国の重要文化財に指定された。

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東門から出て、お堀沿いに石垣を一周してみました。

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艮櫓(丑寅櫓)です。昭和40年に高松市が東の丸から太鼓櫓跡に移築したものだそうです。
何か、遺構をアチコチにガタガタ動かしてる城ですね~。

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実は、お堀の上には電車が走っています。

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何と 駅もお堀の上です。

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ようやく一周し、最初に入った西門まで来ました。

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さあ、次へ移動しましょう・・・


二日目の朝が来ました。今日も快晴です。
泊まったホテルはJR高松駅の近くですが、隣接してフェリーターミナルがあります。
電車を降りたらフェリーに乗り換え、近くの島へ渡るようです。フェリーは生活の足なんですね。

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そのフェリーターミナルの前に高松城があります。(写真は水手御門です)

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ウィキからです。
別名「玉藻城」は、万葉集柿本人麻呂讃岐国枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。
高松城は、豊臣秀吉四国制圧の後、1587年天正15年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。
近世城郭の海城としては、最初で最大の例で[1]、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われている。本丸に建てられた天守は、最下重が萩城熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城岩国城の天守のように「唐造り」であった。その様子は、解体される以前に写真におさめられ、また1884年にイギリスの週刊新聞「ザ・グラフィック」でイギリス人のヘンリー・ギルマールの絵によって紹介されている。[1]

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現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されています。

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無料公開していたので、西門から中に入ってみました。

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天守台はお堀の中にあるので、橋を渡らないと行けません。

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天守台に登ってみましょう。

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天守台がエグれています。天守閣には地下室があったそうです。

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天守閣は、松平時代の寛文9年(1669年)頃に三層五階に建て替えられ瀬戸内海にその威容を誇っていましたが、明治17年(1884年)老朽化により取り壊されたそうです。

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その後には玉藻神社が建てられたそうですが、現在は取り壊され、天守閣の復元を目指しているそうです。

天守台からの眺めです。

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さて、天守台からおりて城内を散策してみましょう・・

今日、27日は、富山県(イオックスアローザ)で初めてKCBM(カワサキコーヒーブレークミーティング)が開かれます。近場ですし、天気もなので、是非とも行かねばなりません。
chonanのZ2モドキを借りて、出発です

んがっ 予想に反して森本~福光の峠を越えたあたりから模様・・・

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会場も霧に霞んでいます。

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KAZEガールも居らず・・・

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見たことのある北陸W軍団のバイクを発見するも、ライダーには会えず・・・

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早々に帰りました・・・

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