tanchanのバイク日記

趣味のバイクを中心に日常を綴ります。

カテゴリ: 旅行(九州)

九州からの帰りは、大分からフェリーを利用しました。
大分~神戸間は ごーるど と ぱーる の2隻のさんふらわあ号が就航しています。

イメージ 1

乗ったのは、ぱーる号です。

鹿児島から宮崎経由でターミナルのある西大分港には、午後5時頃に着きました。

イメージ 2

直ぐに乗船受付をし、近くのスーパーで夕食を調達後、午後6時過ぎに乗船しました。
出航は午後7時15分です。

イメージ 3

この旅で一番奮発したのが、デラックスツインのこの部屋です。

イメージ 4

とてもキレイなバス・トイレも部屋に付いています。窓から外も見えます。

イメージ 5

暗くて分り難いですが、専用のバルコニーもあります。
寒いので居られませんでしたが、デッキチェアも置いてあります。

イメージ 6

先ずは、買い込んだツマミでビールを飲んで、くつろぎます。
全く揺れもなく、船酔いの心配もありません

その後、船内を探検?してみました。

イメージ 7

船長の制服が置いてあったので、恥ずかし気もなく着てみました

イメージ 8

とても快適な船の旅ですが、一つだけ欠点があります。
この季節だと暗くなって出航し、夜明け前に着いてしまうので、全く景色が楽しめません

イメージ 9

大阪湾に入った頃にようやく夜が明けます。遠くに見えるのはあべのハルカスです。

イメージ 10

寝ている間に神戸へ着いてしまいました。

少し間延びしていますが、九州旅行の続きです。
大分から鹿児島へ移動し、このホテルに宿泊しました。

イメージ 1

部屋から桜島が望める良いお宿でした。(価格もリーズナブルでスタッフの対応も最高!!)

イメージ 2

翌朝、鹿児島から知覧まで足を延ばしてみました。知覧特攻平和会館です。
ここは、第二次世界大戦末期に編成された旧日本陸軍航空隊の特攻隊に関する資料を展示する施設です。特攻で亡くなった隊員の写真や遺書、遺品などが展示されています。

イメージ 3

イメージ 4

知覧は、もともとは太刀洗陸軍飛行学校の分教所でしたが、戦争末期には陸軍航空隊の特攻基地となりました。陸軍の総出撃者1,036人のうち、全体の4割ほどにあたる402人が知覧から出撃したそうです。使用された航空機は九七式戦闘機や一式戦「隼」といった旧式の戦闘機が殆どで、場合によっては戦闘機以外の航空機も使用されたそうです。敵艦船まで辿り着ける筈がありません

中には、四式戦「疾風」の実機と一式戦「隼」のレプリカ、零戦五二型の残骸(海底から引き揚げたものです)も展示されています。以前は三式戦「飛燕」も展示されていましたが、現在川崎重工でレストア中です。

展示品は遺影、遺品なので全て撮影禁止となっているので、内部の写真はありません。詳細は公式HPを参照してください。(http://www.chiran-tokkou.jp/about/heiwakaikan/
日本人なら一度は見るべきだと思います。

りは指宿スカイラインを経由して大分へ向かいます。

イメージ 5

桜島がキレイです。知覧の特攻隊員も空からこんな景色を見ていたんでしょうね。

次にお隣の熊本県に行って見ます。
本当は阿蘇山へ行きたかったのですが、天候が悪かったので熊本城に変更しました。

運良く、城内の二の丸駐車場にクルマを置くことができました。
駐車場から天守閣が見えます。

イメージ 1

さあ、それでは入ってみましょう。

イメージ 2

さすが加藤清正が作った城です。ド迫力の要塞です。正に戦うための城です。
後の西南戦争で敗れた西郷隆盛は、終焉の地城山で「わしは官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」と言ったと伝えられています。難攻不落の名城です。

イメージ 3

清正は、永禄5年(1562年)尾張国に生まれ、豊臣秀吉とは血縁関係にありました。
9歳の頃から秀吉に仕え、元服してからは加藤虎之助清正と名乗りました。
賤ヶ岳の戦いでは、後に広島城を築城した福島正則らとともに「七本槍」の1人に数えられ、その後も数々の武功を立てました。

天正16年(1588年)27歳の清正は、肥後(熊本)北半国19万5000石の領主を任命されます。
前任の佐々成政が統治に失敗し、肥後国内は荒れ果てていました。
清正は治山治水、新田開発などに力を入れ、また南蛮貿易に乗り出すなど、積極的に領地経営を進め、国はどんどん豊かになり、結果領民からは神様のように慕われるようになりました。

朝鮮出兵の文禄・慶長の役では主力部隊として7年間戦い続け、秀吉の死後の関ヶ原の合戦では東軍に付き、肥後南半国も領して、実質ともに54万石の大大名となりました。
関ヶ原で東軍についたとはいえ、豊臣家に対する忠誠心は並大抵のものではなかったようです。
しかしその結果、加藤家は二代で家康に領地没収され、細川家が治める城となりました。
家康ってイヤなヤツですよね~。

天守閣に上ってみましょう。
天守へ入る通路を通路をまたぐ形で本丸御殿が建っているので、天守に上がるには本丸御殿下の地下通路を通らなければなりません。

これが加藤清正の見た景色です。

イメージ 4

ただし、天守や本丸御殿は西南戦争で消失していましので、現在の天守は昭和35年に建てられた鉄筋コンクリート製です。

一方で本丸御殿は、木造で在りし日の姿を再現しています。

(写真はネットからの拝借です。問題あれば削除します)

本丸御殿の接見の間です。豪華絢爛です

イメージ 5

平成15年の秋から始まった「本丸御殿大広間」の建築工事は、江戸時代から残る絵図や文献、古写真、発掘調査を基に進められ、大広間(対面所)、数寄屋(茶室)、大台所等、創建時の様相を取り戻しました。

熊本城は朝鮮半島を二度にわたり侵略した加藤清正の居城ですが、韓国や中国からの観光客でゴッタ返してしました。彼らは熊本城を見てどのように感じたんですかねぇ?


福岡県内でもう一カ所だけ観光しました。
福岡市から30分ほどで行ける大宰府天満宮です。

西鉄大宰府駅から参道が続いています。(駅の近くに大駐車場もあります)

イメージ 1

イメージ 2

大宰府天満宮は菅原道真をお祀りしている神社です。
道真は、承和12年(845)に京都で生まれ、幼少期より神童と言われるほど学問の才能を発揮し、右大臣として活躍しました。
しかし、出世を妬むライバルから無実の罪を着せられ、京都から大宰府に流されました。そして2年後の延喜3年(903)に失意の中、当地で亡くなりました。

「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
※春の風が吹いたのなら、その匂いを私のいる所まで運んできておくれ、梅の花よ。主がいないからといって、春を忘れたりしないように。

その後、道真を陥れたライバル一族に次々と不幸が訪れ、全滅しました。また、落雷・台風・洪水・疫病と災厄が続き、人々は「道真の祟り」として恐れました。
その祟りがいよいよ天皇へ及ぶに至り、「天満大自在天神 ( てんまだいじざいてんじん ) 」という神様の御位を道真に贈り、凄まじい怨霊を鎮めることにしました。
これに道真も満足したのか、その後は祟りも治まり、道真は人々から「天神さま」と崇められ、「学問の神様」として現代でも人々の信仰を集めています。
太宰府天満宮は全国約12,000社ある天神さまを祀る神社の総本宮と称えられ、今日でも多くの参拝者が訪れています。 

では、天神さまに会いにいきましょう。楼門を潜り、境内に入ります。

イメージ 3

これが道真公をお祀りする本殿です。

イメージ 4

日本三大怨霊(菅原道真、平将門、崇徳天皇)の一人である道真ですが、怒りが治まって良かったです 学問には関係ない歳になりましたが 災いの無いよう、しっかりとお祈りしておきました。

せっかく福岡まで来たのだから、泊まるだけではなく少し観光していきましょう。
朝早くに宿を出発し、福岡城へやってきました。

イメージ 3

福岡は黒田家ゆかりの町です。
黒田如水(官兵衛)は、播磨国(兵庫県)姫路城で生まれました。
豊臣秀吉の軍師として活躍し、九州征伐で恩賞を受け播磨国から豊前国(中津)へ移ります。(実際は如水の能力を恐れた秀吉が関西から遠ざけたのかもしれません)
さらに、如水の子の長政は関ヶ原の戦いで戦功を上げ、如水・長政親子は筑前国(福岡)へ移り、福岡城を築城します。城名は、黒田氏の故地である備前国邑久郡福岡(岡山県)に由来します。
海側から望むと、鶴が羽ばたく姿に似ていることから「舞鶴城」とも呼ばれています。

長い石段を上っていきます。

イメージ 4

福岡城は、内城と外城とに別れ、内城だけでも80万㎡(24万坪)の面積があり、城の規模としては、九州最大級の巨城です。

イメージ 1

築城の名手で秀吉の軍師であった如水と猛将長政父子が、心血を注いだ城だけあって、実戦本意の武骨な感じのする城です。
しかもこの巨城には天守がなかったそうです。 天守台の規模からして熊本城並の天守が建てられたでしょうが、黒田家安泰のために如水は天守を築かせなかったそうです。  

イメージ 2

「城を造る=謀反を考えている」という時代ですから、賢明な判断ですね。
この結果、黒田家は明治を迎えるまで、福岡の地を動くことはありませんでした。

↑このページのトップヘ